エッセイ目次

No16
1990年8月4日発行
   
   


再会


   
   

 再会というのは、二度目に身体ごと出会うことを言うのだろうか。
 お二人とは、手紙とか、話とかでの出会いである。しかし、私にとってはもはや〈再会〉という言葉以外の何ものでもない。

     
   

○無心で描いた頃がなつかしい
 『絵のかけない子は私の教師』(仮説社)は1928年に出た本である。私の処女出版。そのグラビアに、当時勤めていた、多摩三小(東京都)で授業をやった時の"ぶどう"の絵が載っている。その"ぶどう"の絵が、ミサワホームの社長さんのお嬢さんの作品である。そのことは、その本を見た多摩三小の仲間が教えてくれた。だから、新聞や週刊誌でミサワホームの広告をみる時、チラリ、チラリと彼女を思い出す。
 何年か前、確か九州行きの飛行機の中でのことだと思う。飛行機の中では、たいてい新開を読むか、週刊誌を読む。偶然とりあげた週刊誌に、ミサワホーム社長、三沢千代治氏のインタビューが、大きな顔写真入りで載っていた。しかも、家族の紹介や自宅の住所まで載っている。当然、家族の名には、懐かしい三沢千恵の名があった。
 私はさっそく手紙を書いた。その後、その年の年賀状が三沢千恵から届いた。
 「今、玉川大学の美術科に入って織物をやっています。小学校の時、先生と一緒に無心で絵を描いた頃がなつかしいです。今はもう、あの楽しみはなく、むしろ苦しみの方が多いようです。先生の本はどこの出版社から出ているのですか?」という趣旨であった。
 私の本『絵のかけない子は私の教師』の中の三沢千恵は四年生。せいいっぱいの絵と、せいいっぱいの文章が載っている。当時は苦しみなんてなくて、今の充実感があるだけの文である。大学に入っても、キミ子方式をやったらいいのに。織物こそ、となり、となりとキミ子方式なのにと思った。

 

   
   

○キミ子さんの教え子だ
 小川太一君との出会いは、思いがけなかった。その彼の話を間いたのが、北海道・札幌でのことであった。
 札幌ではいつもお世話になる、ほるぷの中道さんが「キミ子さん、大ニュース」と私に会うなり、大さわぎなのだ。
 実は、ほるぷ主催の展覧会に、一人の青年が見に来たそうだ。その彼は、美術が好きで、帯広畜産大学を卒業して、木工芸の仕事をしているのだけれど、アサヒカルチャーセンターで絵を習ったり、暇さえあれば展覧会を見て歩いているそうだ。
 何かの話から、三原色だけで描くキミ子方式の話が出た時に、突然、その若者が
 「僕、中学校の時、その先生(私のこと)に習いましたよ。国分寺一中(東京都)時代に三原色で描くのを」と言ったそうだ。
 「エッキミ子さんの教え子だ!」と大さわぎ。
 「小川太一です」
 その名を間くや
 「えっ小川太一君?」とほるぷの仲間が、今度は大声をあげた。
 「太一君。あなたはキミ子さんの本のグラビアに載ってるじゃないの」
 「えっなんなの、それ?」と一同ポカーンとしている。
 実は、ほるぷの中道さんの仲間は、本を読むクセがちょっとかわっていて、本を覚える時、文章ではなく、本に載っている絵やカットを見て覚えるのだそうだ。しかも、太一という変わった名前なので、小川太一君の描いた絵をしっかり覚えていたというわけである。
 私も、その話を間くやいなや本を開いてみる。国分寺一中の生徒の作品〈毛糸の帽子〉の写真を見るが、なかなか見つからない。横から、中道さんが「小川太一の作品はココよ」と指さしてくれなけれぱ、目に止まらないような小さな写真である。けれども、まぎれもなく中学生の小川太一君の作品であった。
 彼が今も美術が大好きになっているということに、胸があつくなった。数日して中道さんから、小川太一君の住所が送られてきた。
 私は喜ぴいさんで、私の教師、北海遣に生きる小川太一君にハガキを書いた。 そうして、彼は名をなのった。

 

   
     

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