エッセイ目次
 

No66
1994年10月4日発行


やかん

 お湯が沸くとビービーと音をたてる〈やがん〉が欲しかった。
 私は目の前のことだけ夢中になるクセがある。お湯を沸かしながら本を読み、本の内容に夢中になり、何度やかんをまっ黒にこがしたことか。煙がただよってきて気がつくという始末。台所のガスを止め忘れ、おフロの火を止め忘れ、よくぞ家を家事にしなかったものだと、我が好運をヒヤリとしながら祝っている。

 彼女は、私の長男が小学校一年に入学しだ時のPTA広報部の仲間だった。
 広報部で、全PTA全員に「PTAとはあなたにとって何か」というアンケートをした時、問いかけ文の作成、集計や分析にキラキラ光るものがあった。
 「あなたはすごい才能があるわ。主婦にはもったいない」と言った。そのことを覚えていた彼女は、彼女の子どもが小学校を卒業すると、会社の経理にパートタイムで勤めた。始めるやいなや、なんとか常勤になってくれと頼まれ、会社の経理を把握した彼女は専務になってしまった。
 私が42才で本が出版されたのを期に学校の先生を辞めた。自由業になったのだ。その時から、清水ちえ子さんが、私の経理を見てくれることになった。
「税務署に税金の申告に行った時、清水さんが書いてくれた書類を  「私の友人の主婦に書いてもらった」と言ったら、税務署の人は「これは素人の仕事ではない。この方はそ-と-な方です」と言った。
 その清水さんに、家を建てたいけれど・・・と相談した。
 「松本さん、大丈夫。やりなさい」と言ってくれたので、大船に乗った気持ちで決断できた。
 「新築祝いに何がいい?」と聞かれたので
 「火事にならないようビービー鳴る〈やかん〉がいい」と言った。
 清水さんはやかんをもって、お祝いに来てくれた。
 税金の申告時には、毎年お世話になり、時々お昼を一緒に食べ、情報交換をした。
 痩せている清水さんのお昼ごはんは、巨大なステーキだったり、とにかくボリュームたっぷりで、高校生の男の子のようだった。会社の専務というのは、それはエネルギーを必要としているんだ、と尊敬してながめた。
 数字から、ものを分析する、考えるということを彼女から学んだ。

 私は、ナベややかんの外側を磨いたことがない。まっ黒なやかんがガス台の上に乗っている。そのやかんを、わが家に遊びにくる度にビカビカに磨くのは、次男の親友、星くんだ。
 私たちがくみ取り便所の二万円の家に住んだ時、同じ校医の次男のクラスメートが「クセエ、ポチャンベシジョ」と大声をあげながら我が家の前を通ったり、庭にゴミをまきちらしたり「テレビもないビンボーな家」と、すっとんきょうな声をあげたりした。
 自由に生きる証をと、誇り高く家出して住んだ家が、一家に対する侮蔑であった。
 〈価値観が違うだけなのに〉と、大人の私はわかるが、小学生の私の子ども達にわかってもらえるか。考えた私は、近くの進学塾に次男を入れることにした。そこの塾長はアメリカを放浪してきた自由人のなれの果てであることを確認した。その塾で親友になったのが星くんだ。
 彼が初めて我が家に来た時、本だらけの私の家の本棚を輝く目で見渡し「わあっ、こんな本もあるんですね。あっ板倉さんの科学の本、この本を貸していただけませんか」と、次々に本を借りていった。
 やっと、次男に私たちと同じ価値観を持つトモダチが出来たのである。
 星くんと次男は、私立の中学に受かり、私たちが星くんの家から車で30分くらい離れた新居に移り住んだ後も、週末に自転車で我が家にやってきた。
 そして、まっ黒になっているやかんをせっせと磨いてくれたのだった。
 高校生になると、バイクで我が家にやってきては、やかんを磨いてくれた。
 浪人生になった時、キミコ・プラン・ドウの事務所のすぐ近くの予備校に行ったフリして、キミコ・プラン・ドウに入りびたりだった。
 絵を習いに来る生徒さんのためにお茶を出し、生徒が帰るとホウキとチリトリで掃除してくれる。ビキニングニュースを折ったり、束ねたり。
 キミコ・プラン・ドウとしてはうれしいけれど、これで大学受験に失敗したら責任重大だと、私たちは彼に立ち入り薬止にした方がいいのではと何度も話し合った。
 その彼が、東京外語大学フランス語学科に合格したときは「ヤッタ、ヨカッタ!」と胸をなでおろした。
 我が家のやかんは、東京外語大フランス語学科の学生さんに磨かれることになった。

 二年前、清水ちえ子さんが胃を手術し、全部取ってしまった。 いそいで病院にかけつけた雨の日、私は車を車庫にぷつけてしまう。まるで運命のいたずらのように。
 東京に居られる日は必ず彼女の個室の病室へかけつけた。暗く寂しい部屋だったよう気がして、行かないわけにはいかなかった。
 「よくなったら、もう、会社を辞めて、キミコ・プラン・ドウの会計を見てあげるね」と彼女。
 「よくなったら、絵を教えてあげるわ」と私。
 手術から一年七ケ月後、彼女は亡くなった。ガンだったのを死後知った。
 わんわん泣いた。今でも清水ちえ子の名前を客くたびに涙があふれる。
 彼女が残してくれたやかんは、10年過ぎたのに、元気にビービーないでいる。
 星くんは、今年の年賞状に「学校を休学して、二年程、イラン大使館に行きます」と書いていた。
 我が家のやかんは磨き手を二年失ったと思いきや、先日『子どもとゆく』の編集長の藤田悟さんが夫人の妙子さんと来られた。
 藤田さんは茨城キリスト教大教授である。その彼が
 「あの-やかん磨かせて下さい」
 またもや、我が家のやかんはピカピカ。
 私は、やかんになりたいと、やかんに嫉妬した。
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