エッセイ目次
 

No75
1995年7月4日発行


赤い画用紙 消防自動車を描くin沖縄

 沖縄、浦添消防署は、丘の上にある。
 六、七台の消防自動車が建物の一階で、道路に向いて広場を前にかかえて保っていた。広場には、植木や芝生。建物の右後方にはアスレチック公園。
 六月十八日、父の日。梅雨も上がり時々青空、風が強い。
 琉球新報カルチャーセンター主催の、消防自動車を描く会だ。参加者34名。
 「どの自動車にしますか?」と消防止さんが聞いてくれる。
 「クラシックカーの方がデコボコがあって絵に描きやすいのです」と一番古い形の消防自動車をモデルにお願いした。
 「お好きな所へ動かします」ということで、陽差しもあって、芝生もあるところへ移動してもらった。
 風景を描く時は、気持ちのいい場所、描きやすい位置がきまったら、もう八割は絵が出来上がったようなものだ。
 描く人は、消防自動車の正面か側面から描く。風が強く、画用紙が飛ぷ。画用紙を画板にとめるための洗濯バサミを買いに、スタッフに走ってもらった。
 午前十時から十一時半まで、赤い画用紙に、黒のサインペンで形を描く。作者の近くで、一番複雑に見える一点から、隣ヘ、隣へと形を描く。半分しかできていない人は、画用紙を半分に切る。自分の描けている所までで、画用紙を切って構図を決める。
 遅刻してきた男子中学生は、ただ一人黙々と描き続ける。お昼休みの一時間のうち、50分は描き続けただろう。時々、私がおぺんとうを食べながら彼の方を見たら、真剣に描いていた。
 十二時半から、形だけを描いた絵に色をぬる。
 タイヤの黒、メタリックな部分は灰色、ライトは黄色、文字の白とぬり絵をしていく。地面や芝生を描いて、空を描く、最後に消防自動車を赤でぬる。
 沖縄の紫外線はきつい。強い風で暑さは感じなかったが、腕や顔がヒリヒリする。
 一時半に全員で記念撮影をして解散となった。

 それから五日後。
 別の会場で開催した絵を描く会に「私の描いた、消防自動車の絵を見て下さい」と、写生に参加した親子が飛び込んできた。
 学三年生の女の子は、四つ切半分の画用紙、母親は四つ切大の画用紙。小学生の絵は、額縁に入っている。
   「わあ-スゴイー」「上手!」「どうして、こんなステキな絵ができちゃったの。私も参加すればよかった!」と大騒ぎ。母親もうれしそうだ。小学生は、全身ニコニコして目は輝き、ふっくらとした体は、誇りに満ち満ちている。
 「あの写生会のあと、この子はどこへ行っても、誰に会っても、この絵の話ばっかり。学校へ行っても、先生に会っても。そして、作文にも書いたのよ」
 「絵なんて描いたことのない私にも出来たんですよ。うれしくって」と、お母さん。
 「いいわね、どうやって描くの? えっ、赤い画用紙に描くの? それにしても、どうして赤い画用紙にしたの?」
 十二、三人の賞賛をあびて、幸せそうにしている母子を見て、涙がこみ上げてきそうになった。
 栄養不良のような、あの女の子のことを思いだしたからだ。

○彼女のメッセージ
 一九七八年だった。スペイン留学から帰って、日本がとても新鮮に見えた時だ。
 町田市の小学校の産休補助教員をしていた。生徒達に、何を描かせるのがよいのか、一点から隣へ隣への方法が良いのはわかっていたが「何を描くか」を探している時だった。
 私は〈良いテーマ〉か〈よくないテーマ〉かを、生徒達が満足したかどうかで決めることにした。
 人間は満足すると、余韻をたのしみたくて後片付けもきちんとする。不満だと、その場から去ることしか考えられない。
 絵の道具は、学校で用意することにしていた。
 「道具を持ってきなさい」と言わなくても、「後片付けをしなさい」と言わなくても、私の授業が子ども達にとって嬉しいものだったら、道具も持ってきて、自分で後片付けをするだろうというカケをしていた。

 丁度、季節は冬。二月である。
 生徒達が洗わずに帰った絵の具だらけのパレットを、寒い廊下の冷たい水道で洗いながら
 「あ-、このテーマが悪かったのかな。でも、先週よりも少し汚れたパレットが少ないかもしれない」と自分をなぐさめながら、教室掃除のあと、パレットを洗っていた。
 その時、一人の小柄な小学校四年の女の子が、おどおどと 「先生、手伝いましょうか?」と声をかけてくれた。 「ありがとう。でもね、これって私の授業の評価なのよ。いつになったら、みんなが自分のパレットを洗って帰ってくれるのか、たのしみなの」と、私は彼女に言う。黙ったまま彼女は、一緒に冷たい水道で、パレット洗いに協力してくれる。ありがたい。
 その子は栄養不良のように、色黒くやせて小柄だ。そして募黙。その日から教室の後片付けやパレット洗いに協力してくれるようになった。
 いつも授業後の感想文をかかない彼女に、ニワトリの授業のあと
「ねっ、感想文を書いて」とお願いしたら、彼女は困ったような顔をしたあと、書いてくれた。

 その感想文を見て、アッと思った。そこには、宇宙語としか思えない文字が並んでいた。 「あとみもにりょくみないこんうきる・・・」。一つの文字は正確なのだけど、単語になっていない。一つの文字の練習のようだ。彼女は文が書けない人だったのだ。それなのに、一生懸命知っている字を並べてくれた。
 涙で字が読めない。でも、私は読まなければならない、わからなけれぱならない、彼女のメッセージを。
 五月のゴールデンウイークが過ぎた頃に、その学校では、全校生徒による消防自動車の写生会が行事として入っていた。小学四年生以上の五百人の生徒の責任者が私だ。
 今までの図工(植物や動物、人工物である「毛糸の帽子」)は、彼女にもちゃ-んと描けた。でも「自動車の写生」は、彼女には無理だろうと思った。
 全校写生大会は、職員室から丸見えの校庭で行われる。五百人もの生徒相手なので、彼女につきっきりで教えることは無理だろう。先生にも友達にも、彼女が描けない子だと知られたくない。
 そこでひらめいたのは、赤い画用紙を使うということだ。赤い画用紙なら、遠目では絵を描いているかどうかわからないだろう。白い画用紙だと、描いている人と、そうでない人がわかってしまう。かくして、五百人の生徒達の赤い画用紙が校庭に舞い、赤い消防自動車によく似合い、楽しい雰囲気になった。
 おまけに、その時に描いた絵は、コンクールに大量入賞した。
 あの子は今、27才のはずだ。文字が書ける人になったのだろうか?文字が書けなくても、そのやさしさで、きっとまわりを幸せにしているだろう。
 もし、彼女に再会できたなら、きっと私とこう言うだろう。 〈あなたのおかげで、多くの人が絵を描ける幸せを味わっているのよ。自信を持って生きていこうね〉と。
 今では、消防自動車は赤い画用紙に描く。キミ子方式の定番になった。
 〔新刊『三原色のフィールドノート』「・風景画」(山海堂)に、カラーで描き順が載っています。)

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