エッセイ目次
 

No97
1997年5月4日発行


最後の一枚

 一九九七年のゴールデンウイークは、「Let's Enjoy Kimiko Method in TONGA 波多江俊美 写真展」と「草花を描くたのしみ 加藤りつ 水彩画展」である。
 トンガ王国のみなさんと楽しく絵を描いた時の風景写真を、写真展のために膨大な数のフィルムの中から60数点を選んだ。
 写真家の波多江さんと私、そして一緒にトンガ王国に行った、柳沢氏と京子さんがやじ馬、口だしっぺ係として参加した。
 一度目は、4時間ほどかけて、念入りに、写真展用として、数ある中から66点を選んだ。ところが、トンガでの冊子作りに追われていた京子さんが、その冊子にカットを入れようと、あちこち写真を選んでいるうちに、写真展用のカットとそうでないカットが、また一緒になってしまった。
 〈印をつけていなかったのだろうか?〉と、私と波多江さんは電話でやりとりをしたけれど、どちらも記憶にない。その日はとても疲れていて、最後の仕事のツメを思い出せない。近くのラーメン屋さんに波多江さんと私が〈タンメン〉を食べに行ったことだけは思い出せる。
 「もう一度、選び直すしかないね」と、再度、キミコ・プラン・ドウに集まってもらった。

 フリーカメラマンの波多江さんが撮ってくれた写真は、マウントになっている。スライド映写機に入れて、すぐ写せるようになっているのである。だから、肉眼で見るのは難しい。蛍光灯が入った四角い箱の上に置いて、上から、拡大鏡をあててのぞき込むようにして見る。
 でも、素人の私は、つい、明るくない電球にそのフィルムを手でつまんでかざし見ようとする。約3センチ四方のフィルムは見ずらいけれど、つい、そうしてしまう。
 この写真展は芸術的というより、記録の意味も込めて、絵を教えた17ヶ所の風景が必ず入っていにことにしましょうと、私は提案した。
 「最初の日に、市場で絵を教えた時の風景、いい写真がいっぱいあるね」
 「キミ子さん、海岸で走り回って絵を教えている写真、これも展示しない?」
 「フレンドリーアイランドホテルのプールサイドで、3人のトンガ人以外の外国人の芸術家に教えた時のスナップもいいね。でも、これはトンガ王国の人に教えたことにならないか」
 「デートラインホテルで、ディナーショウの後、ロビーで〈髪の毛〉の授業をやった時、わざわざトイレに行ってチリチリの髪をおしゃれして、ピッと手入れをして表れた人がいたわね」
 「その写真は展示しよう」
 「日曜日のパンガイモツ島では、〈海と空〉の絵を水着のまま観光客相手に教えたけど、あの写真も展覧会に出したいね」
 「一心不乱で描く、水着の少年はトンガに観光に来ている外国人だけど・・・」と、トンガ王国での楽しい8日間を思い出しながら、柳沢氏、京子、私、波多江さんの4人は、マウントの入ったフィルムをかざす。
 波多江さんは、「一日目の土曜日と、二日めの日曜日は、お天気が良くてトンガらしいって感じなのですが、三日めのハウタフ村での〈色づくり〉は、陽がきつすぎて、色がとんじゃっているのでは?」 
 「ハアタフ村で七人の私達のまわりに集まったのは、若い女性のカトリーナを中心に若い男性、石川県から来た小学校教師の貝田さんを中心に若い女性ばかりが集まったよね。そして、私のまわりにはチビばっかり」と、笑いあった。
 私は何枚もある写真を一つ一つ電球にかざしたり、白い箱の上にならべてのぞきこむ。
 「私のグループに、泣いている二人の小さな子を連れてきたのは,この村の責任者で挨拶した人だ。この写真も展覧会に」。
 「ウーマンズセンターでは、室内が暗くていい写真を撮れなかったんです。明るい廊下で描いてもらったのは、人に見せられる写真になったのですが・・・。室内での五回の授業は、暗くて無理かもしれません。教員養成大学での授業風景は、この日は、雨模様でスッキリしないので、ちょっとダメかなぁ」
 「この写真、いいんだけど、京子さんが目をつぶっているなぁ」と言いながら、私達がとりあげる写真の中から、展示する写真を決めるのは、絶対に波多江さんだ。波多江さんは、フィルムを電球などにかざさず、蛍光灯の入った箱に拡大鏡をあててしばしのぞき込む。
 「わたしの目、異常に大きいたら、多少つぶれていても、ふつうはわからないんじゃない? このシーン捨てがたいなぁ」と京子。
 波多江さんは、
 「トンガ王国に行く前は、あんなにたくさんの場所で絵を教えられるっていう情報ではなかったでしょう。僕としては、多めのフィルムをもって行ったのでよかったですが、結局足りなくなって、最後の方は、別のフィルムで撮ったので、イマイチのような気がするんです」

 特にJICAでの授業は、トンガ王国での最後の授業だった。「日本人七家族、14人くらいの生徒さんだし、写真がなくてもいいかもね」と気楽に出かけたのだ。ところが、25人以上集まっていて、トンガ王国のJICA関係で働く人達なので、トンガ人以外の外国人も混じっていた。国際色豊かで、いわゆる絵になる風景だったのだ。
 そこで、ちょっと不思議な少女を見つけた。
 大人の日本人が、小学校三年生くらいのトンガの女の子に〈色づくり〉の説明をするが、全く反応を示さず関係ない方向を見ている。私はすぐ飛んで行って、その少女の左肩を抱き、彼女の右手に私の右手を重ねて一緒に筆を動かした。たったそれだけの動作で、その女の子は、画用紙に目を落とし私と一緒にてを動かし始めた。8色くらい、その子と一緒に色づくりをしたら、その後は一人でどんどんたくさんの色を作った。
 授業の後、その子のお母さんが私のところに来て、涙を流しながら「この子はハンデキャップがあって、何も出来なかった。でも、この子は絵が描けた」と、私に教えてくれたのを、同行した10人のメンバーに伝えてあった。
 その、ドラマチックな少女の写真は、人々のうしろに小さく写っているだけだ。
 涙ながらに語る母の告白に、私が明るく「ノープロブレム」と答えたので、私達スタッフの間では「ノープロブレム少女」と呼んでいた。
 「あっこの写真、ノープロブレム少女が半分しか写っていない」と私。
 「最初から、その子がハンデキャップがあるとわかっていたらその子を視野にいれていたのに。ノープロブレム少女の写真でつかえるのはないんです」と波多江さんは残念そう。
 ところが最後の最後に何気なくとりあげた一枚の写真を見ておどろいた。
 「あっ、これ何? ノープロブレム少女が写っている。あれ、お母さんが涙をながして、私に訴えてるよ。涙が写真に写っている!」
 「そんな写真あったんですか? ホントですか?」波多江さん、柳沢氏、京子が、かわるがわるのぞきこむ。「ホントだ!」
 最後の最後に、その写真が見つかったのだ。
 もしかしたら、この写真に出会うために、二回も写真選びのチャンスがあったのかもしれない。運命とは、不思議なめぐりあわせである。

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