エッセイ目次
 

No106
1998年2月4日発行


フティヤンガにて

 この文章はニュージーランドのフィティヤンガで書いています。ただ今、九時一五分、BBCニュースが終わったら、ビギニングニュース用の原稿を書こうと、昨夜決めていたのです。
 昼間までにこの原稿が終わったら、フィティヤンガに住むKeiko OGURAさんのところへいって、直接、キミコ・プラン・ドウにファックスしてもらおうと思っています。
 Keikoさんは日本人です。お母さんと娘さんと三人で、一年半ほど前にニュージーランドに移住してきました。彼女は翻訳家です。日本からEメールで送られてくる英語の文を日本語に直したり、日本語の文を英語に直して日本に送ったりする職業です。今はコンピューターが発達しているので、彼女のように翻訳業の人は、どの国でも住んで、職業を持つことができるわけです。私も文筆業だけで食べられるならば、どの国でも暮らせるわけです。(コンピューターが扱えたらの話ですが・・・)
 それにしても、私はニュージーランドのフィティヤンガが好きです。そして、我が家から眺める風景が好きです。目の前が海と空、そして向こう岸。
 二、三日前に、お隣りに住むキャスィさんのところでディナーパーティーがあったのですが、その時、はじめて出会う、マンセァという52才のイギリス人(今はニュージーランドの人と結婚して、フィティヤンガに住んでいる)が、私に聞きました。
 「どうして、フィティヤンガに家を持つことにしたの?」
 「うん、長い長い話があるのよ。聞いてくれる? この町で英語学校を開いているモーリスのパートナーだった、バーネットを知っていますか? 彼女はもう亡くなったけど・・・」と私。
 「えぇ、知っていますよ。彼女は確か1992年に亡くなったのでは?」
 「そのバーネットと、東京の国立市という町で出会ったんです。私が英語の先生を探していて、国立公民館のコーヒーハウスで話をしたら、そこで働く人が『変わった女性バーネットを知っているわ。シンガーの彼女は英語における女性差別の勉強会をしているの。Humanと言わないでPeopleと言うべきとか、女の人が消防士になってもFiremanというのはおかしいとか、とにかくユニークな方なの。子どもがいて、結婚しているけどダンナさんのことをhusbandではなくパートナーだって主張するのよ。その方に興味があるなら紹介するわ』というわけで、変人の私は、変人のバーネットから英語を習うことになったの。そして、私はバーネットが大好きになり、彼女の住むニュージーランドという国、フィティヤンガという町の話を聞くことになったの」
 そして、彼女は白血病になり、急いで家族(娘二人とバートナー・モーリス)と一緒にニュージーランドに帰ることになった。翌年、彼女から、彼女本人が録音したカセットテープが送られてきた。
 彼女の歌と、日本で出会ったトモダチの名、そして会えなくてつらいと彼女の切々たる声が吹き込まれていた。
 「キミコ・・・」と、私に呼びかける彼女の声を聞いたら「冬休みにニュージーランドに行こう。彼女はいつまで生きられるわからないのだから、生きているうちに会おう」と決心した。
 そして、一回目にニュージーランドを訪れ、一年おいて二回目。そして三回目の時には、彼女はもうこの世にいなかった。
 「彼女は私に世界の広さを教えてくれたのよ。キミコ・メソッドの良き理解者でもあったのよ、私の本を買ってくれたり」
 「私の家は、バーネットとの記念碑です。毎年一月にここに来て、バーネットの庭に行き、私は自分の人生を考えるの。生きている意味を考えるの。私にとってバーネットは私の心の中に生きているから、彼女に問いかけるの。〈もうすぐ58才になる。今年はダイナミックに展開するような気がしています〉」と。

 1995年の寒い12月の夕方、ニューヨークのど真ん中で、作家の奥さんカニーと犬と一緒に散歩している時、カニーに同じ質問をされて、同じに答えた。
 彼女は深くうなずき突然「実は私もガンなの。私の乳房は片方ないし、この金髪はカツラなのよ。私はでも勝っているわ、私はガンに勝ってるわ。ガンに勝ったごほうびに、私は中国での世界女性会議に参加したの」
 私たちは、1995年の中国での世界女性会議で出会ったのだ。会議期間中に、私の本に心から興味を示してくれた最初の人だった。私たちは一瞬のうちにトモダチになった。
 女性会議でキミ子方式のワークショップをやってから、世界へ積極的に出て行こうと決心がついた。カニーは私の世界進出へのきっかけをつくってくれた。
 ところで、昨年末のスケッチツアーは、エジプト行きが中止になり、急いで変更したモロッコ行きは切符が取れなかったりで、ツアーはスペインだけになってしまいました。エジプトツアーをたのしみにしていた方、ゴメンナサイ。
 スペインツアーに参加してくれた19才~75才までの20名と過ごしたスペインは楽しかったこと!
 一番心配していたセビリアからグラナダへの長時間のバス移動は、ゆっくりお互いが紹介し合えたことがよかった。次のネルハからミハスへのバス移動中は、同行の北海道から参加されたトモコさんの42才の誕生日を、参加者それぞれが〈私が42才になったら〉〈私が42才だった頃〉を話しました。
 トモコさんは大喜び。スペインで42才の頃を思い出すことになった私も意味深かったです。今回のスケッチ、今までになく多くできたのではないでしょうか?
 私もガウディの作品を見にマジュルカ島へ良き、そこからカディスで二週間スペイン語学校に入り、その間、様子を見にモロッコのタンジールに一日ツアーに参加しました。
 久しぶりにヨーロッパに行って、まだまだヨーロッパから学ぶものがいっぱいあると思いました。
 三度目のグラナダのアルハンブラ宮殿も、ゆっくりスケッチしてみて「あっ、こうなっていたのか」とわかったりしました。
 ツアーのみなさんと分かれて、モロッコに再度一人旅をしたのですが、ヨーロッパをもっとじっくり理解してからにしたいと思い、来年は南イタリアへ行きたいと思いました。
 モロッコのマラケシュは、英語、スペイン語、フランス語でした。フランス語は武蔵美に行っている時、試験でカンニングに失敗し、先生に見つかり、それ以来避けていたのですが、モロッコに行ってフランス語攻撃の中で暮らしたら、フランス語も勉強したいなぁー。2000年はチャド国にキミ子方式を教えに行かなければならないから。
 そうだ、来年は、イタリアの国境に近いフランス語圏で、私はフランス語学校に入り、スケッチツアーは南イタリアにしようと決意し、そのことを近畿日本ツーリストの岡崎さんに伝えたのでした。
 みなさん来年、いや今年1998年12月は南イタリアで会いましょう。

 ・・・・ここまで書いてまだ十時半。日本語は早く書けていいです。辞書も引かずにすみます。今日は土曜日なので文房具店は午前中です。画用紙を買いにいかなければなりません。午後三時から「空の絵」を教えるのです。今日は、くもり日なので「くもり空」を教えます。近所の人に。英語で。

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