エッセイ目次
 

No118
1999年2月4日発行


海外スケッチの旅 in イタリア

 この原稿はニュージーランドで書いています。はじめの予定では、今日まで英語でイタリア日記が終わり、それを今日と明日で翻訳して、日本にファックスで送るつもりでした。
 ところが、英語の日記はまだ、北イタリアのスケッチの旅が終わって、ローマで大学の先輩と出会って、乗馬をしたところまでしか書き進んでいません。これでは2月号の原稿には間に合いそうもありませんので、いそぐことにしました。
 幸い、今日(一月二十三日)は雨です。昨日も雨。目の前の海は引き潮時です。晴れていたら、バケツを持って、水着になって、貝取りにいくのですが、雨がやんでも秋のように肌寒いので、あきらめて原稿に向かいます。
 まず、大好きなショパンのノクターンを聞きながら、英語で書いた日記を翻訳します。


 十二月二十日〈北イタリアの旅〉フィレンツェにて。
 イタリアといえば、どうしても二十一年前の私が三十七才だった時の旅と重なってしまいます。
 三十七才の時、私はキミ子方式を考えて二年目。キミ子方式を発表する場所ではことごとく無視され「キチガイ」「うそつき」「宗教家?」とかげ口を言われました。
 私は、キミ子方式を考えてから、教師という職業のすばらしさに気づき、彫刻家になる夢をあっさり捨てました。しかし、教師達が集まる研究会に行っても、私の発表にだれも耳を貸そうとしないのです。私のことはさておき、私に絵を描くとは何なのか、絵を描くということはどういうことなのかを教えてくれたたくさんの子ども達に申し訳なくて、もう教師をやめよう、教育に関することをやめよう、日本を捨てよう。もう一度、彫刻家の勉強をしようと決心しました。そのためには、大好きな作家ガウディの住んだバルセロナに行こうと決心しました。その後、スペインのバルセロナに約四カ月いて、ヨーロッパを旅しようと、通っていたスペイン語学校をやめ、イタリアへと旅したことを思い出していました。
 スペインのマドリッドの地下鉄で、偶然、大学時代の後輩に会いました。
 彼は奨学金でイタリアで彫刻の勉強をしているということでした。そして「ぜひ、フィレンツェへおいで」と住所を教えてくれました。
 一ヶ月グラナダにいたあと、汽車でイタリアのフィレンツェに向かいました。長旅でした。
 訪ねた後輩の下宿には「ただ今、旅行中」の紙きれが貼ってあるだけでした。
 フィレンツェには約一週間いました。毎日、美術館めぐりをしたあと、彼の家のドアを見に行きました。相変わらず「ただ今、旅行中」でした。
 そこで、思い切ってスイスに行くことにしました。やはり汽車でです。
 フィレンツェといえば、二十一年前のさびしさを思い出します。
 私たちの今回の北イタリアスケッチツアーは、十代から八十代までの様々な年齢の人たち九人です。私と男性ツァーコンダクターを入れて十一人です。
 「まるで一家族のようですね」と和気あいあいの雰囲気でした。
 フィレンツェは、町の中は車が入れません。歩くことになります。七十代二人、八十代一人の三人の熟女たちはとても元気です。しかし、早く歩けません。彼女たちのおかげでゆっくり町を見て歩きます。ゆっくり歩くことが、深く町を味わうことになって、三人の年輩の女性たちに感謝です。ドォオモ、ミケランジェロ広場、シニューリア広場。
 そして、何より嬉しかったのは、ウフィッツィ美術館でした。一時間、ガイドさんが説明してくれて、あと一時間はそれぞれ自由時間です。私は大好きな作品の前に戻りました。
 ボッティチェリの〈ヴィーナスの誕生〉。
 私は高校生の時、彼の絵について詩を書きました。その詩を、まだ恩師がもっているのです。彼も今も元気で北海道にいるはずです。
 ミケランジェロの丘から、フィレンツェの町をスケッチしました。スケッチが始まった瞬間、それぞれが夢中になり、その時以後、ガイドさんは「あと五分で終わってね」「あと三分」と、スケッチをやめさせる係になりました。

 十二月二十一日
 ボローニャ、ラベンナを通って、パドバへ行く予定です。
 今朝から雨。ボローニャへ向かって山を超える頃は、雨が雪に変わりました。
 「ホワイトクリスマス」は、バスの中で興奮しました。しかし、ボローニャも私にとって複雑な思いのある町です。
 一九八三年、私の本『三原色の絵の具箱』が出版された翌年です。「ボローニャの本市場」に私の本が出品されることになり、五冊だけ英語の本にしました。英語のパンフレットも作りました。
 私はそのために新しい着物を作りました。しかし、ある人がアドバイスしてくれました。「それよりも印税を上げてもらう方が大事では?」と。
 私は当時、とても貧乏でした。印税を上げてもらうことにしました。ボローニャ行きはあきらめました。
 ボローニャでは、私の本は売れませんでした。
 現地では「あなたはこの方法で絵を描いたのか?」とバイヤーの人達たちから聞かれてましたが、そこに行った人は誰もキミ子方式で絵を描いていません。「良い方法なら、なぜ、あなたがためさないのか?」と言われたそうです。
 そのボローニャは、ポルティコといって軒先がアーケードのようになっているのです。トンネルのようになっているというか、雨でも、そのアーケードをずっと通って行けるので、雨でも大丈夫なのです。そのポルティコから、私たちはボローニャの建物をスケッチしました。
 ラベンナへ着いたのは、美術館がしまるギリギリの時間です。雨と雪のため車が渋滞していて、すべての予定が狂ったのです。
 モザイク画群に間にあったのは幸いでした。商店もトイレもしまっていて、トイレだけは無理に開けてもらいました。
 その終点、パドバについたのはもうよるでした。郊外のいいホテルなので安心しました。

 一二月二十二日
 朝から快晴です。
 今日はジョットーのフレスコ画が見られます。もう感動、感動。私はこれを見たくて、この旅を計画したようなものです。
 二十一年前は、この町に三日間くらい滞在していたけど、ストで見られなかったのです。  午後はフリータイムです。あまりの晴天に、ヴェネツィアに行ってもいいかな。ジョットーの作品があまりにもすばらしかったので、もう今日は十分だと思いました。でも、「ヴェネツィアへ行こう。しかもタクシーではなく汽車で」。ヴェネツィアでは「水上タクシーではなくパブリック水上バスで」。そうして無駄にお金を使わない分、豪華な昼食にしました。おいしかったです。
 ヴェネツィアは私自身はいい思い出のある街ではなかったのですが、今回は最高でした。  安いパブリックバスや夕方の散歩の途中、ちゃっかり、多分高価な「ゴンドラセレナーデ」をタダで聴くことができたのですから。
 ヴェネツィアはショーウインドーが洗練されています。みなさんショッピングに飛んでいきました。
 私はゆっくり、夕暮れのサンマルコ寺院でミサに参加し、二十一年前と今をくらべて、満足していました。

 十二月二十三日 ミラノ
 ミラノでのハイライトは、ミケランジェロの〈最後の晩餐〉を見ることです。普通は二時間も三時間も並ぶそうですが、三十分くらい並んだら見られました。「奇跡だ、みなさんいい時期に来られました」と男性ガイド氏。
 彼は話の途中で、すぐ「愛する我が妻、フラちゃん」といいます。「僕の奥さん、イタリア人だけど、写真みますか?」と写真を見せてくれました。
 「彼女は何歳だと思う?」と聞かれ、私はちょっと若めに「十八才」と言いました。彼は「まさか!」。そこへ誰かが「二十八才」というと、ガイド氏は「僕の妻は五十二才です。僕が三十三才だから、十九才年上の女房です。若く見えるでしょう」といい、わが女性軍はうらやましくて「ワァー!」と叫びました。「ホントに若く見えます。必死で若く見えない写真を探しましたが、若く見えます」。ミラノ市内観光が終わった時「では、僕の妻に会って下さい」と、奥さんを紹介してくれました。彼女はちょっと写真うつりのいい人だなと思いました。
 ミラノのヴィットリオ・エマヌエレ2世アーケードのある場所で、かかとでくるっと半回転しながら願いを言うと、願いがかなうそうなので、私たちははりきって、願いを心に半回転しました。
 二十一年前の淋しい旅が、今回の旅で挽回できました。同行して下さったみなさんに感謝します。


 南イタリアとシチリア スケッチ旅行〉
 十二月二十七日
 ホテルで皆さんを迎えようと待っていたら、なかなか到着せず、しかもホテルのロビーは寒いので、とうとう本格的に風邪をひいてしまいました。
 皆さんに夜遅くおめにかかった時はガラガラ声。小学生の男性を一人加えて、二十三名のメンバー。なつかしい顔、はじめての顔。

 十二月二十八日
 ヴァチカン博物館。まず中庭でライオンの像をスケッチ。スケッチしはじめると、ほんとうに夢中になって静まり返り、私はこの瞬間が好きだ。
 ヴァチカン博物館の〈最後の審判〉を見るため、礼拝堂にみんなが天井を見上げている風景はおもしろかった。夕食が手ながエビ? ともかく魚とフルーツで一安心。
 ローマの街は、ローマの休日気分で、もちろんトレビの泉にコインを投げた。あまりの彫刻の数にあきれかえる。

 十二月二十九日
 バスでポンペイへ。晴れて暖かい日でした。安心してコートをバスの中に置いてポンペイの遺跡見学に行ったら、陽かげはとても寒いのです。又、風邪がぶりかえす。
 途中、カメオ屋さんに寄った時、同行の米子さんが、今は亡きだんなさんに以前ローマで買ってもらったカメオのブローチが、そこのマエストラが作った作品だとわかり感動。
 その後、ナポリへ。ローマのホテルが四つ星なのに安っぽかったのに比べ、ここは良いホテルでうれしい。
 夕方ホテルを出て、何人かで散歩に。港でスケッチをしたら、スケッチした教会を見たくなり探した。何やら手招きするので、上にあがったらそこにはすばらしいキリストの木の彫刻があって感動。
 お正月のナポリの裏町は、アメ横に似ていた。
 大きな浅いタルに、様々な貝が売っていた。スケッチしている足元に、少年たちに爆竹を投げられた。ほんとは驚いたのに、何食わぬ顔をしていたら、何度も投げられた。そのうち通りかかったポリスに少年たちはしかられていた。

 十二月三十日
 朝から上天気。ナポリの海を見るのに最高の日。
 考古学博物館は、たくさん閉まっている部屋があり、二十一年前の印象とちがう。前はセクシーな彫刻だけのある部屋をカギ穴からのぞかせてもらったり、特別室に案内されたりしたが、今日は三十日だから、働く人が少ないにちがいない。
 飛行機でシシリー島へ向かう。少しあったかいような気がする。

 十二月三十一日
 シシリーは私にとってはじめてなので、どこに何があるのか見当がつかない。
 お天気は下り坂。古代ギリシャ劇場が圧巻。美術館がないのが不満。考古学博物館があるはずがしまっていた。
 ホテルの空調があまりよくない。昔の貴族の別荘を、今、ホテルにしているので、雰囲気はいいが、ちょっと不便。ニューイヤーパーティーはぎりぎり十二時までつきあう。あまりの飲み物、料理に後半は食べられなくて残念。
 新しい年を迎え、花火がぼんぼん海に向かって上がる。そして歓声。私は失礼して寝る。

 一月一日
 今日から一九九九年、昨夜とつぜんホテルの部屋のドアをたたく人があり、風邪をひいた体を引きずって不快そうに出ていくと、ホテルから新年のための特別プレゼントで、カゴに美しくもられたチョコレート。
 旅行社からの新年のメッセージカード、そしてタオルミーナ名物のハンカチとお正月の記念にたべるチョコレート二個。
 私の風邪はいよいよ喘息に向かうのか。
 雨なのでバスでタオルミーナの市内をめぐる。店も教会もほとんどしまって、町は死んでいるようだ。
 ところが美術館らしいものを発見。
 「ちょっと見たい」といったら、現地のガイドが「美術館じゃないし、入場料がいるからダメだ」と反対する。それでも「入口だけでも」と強引におしきって五、六名でいく。中に入ると、やっぱりそこは考古学博物館で、しっかり展示会をやっていて、しかも無料だった。美術展に関して、私は本能が働く。
 トイレ休憩のためにとまったドォオモ前の広場にバスがついたら、急にドォオモが開いた。北海道の村上かおるさんは、すごくキリストの歴史にくわしくて、彼女の解説でドォオモ内の絵を鑑賞した。はじめから彼女の力を借りるべきだった。
 シシリーでは、お天気が悪かったせいか、私の体調が悪かったせいか「ガーン!」と感動する芸術作品に出会える美術館がなかったのが心残りだ。これからは美術に興味があるガイドにしてもらおう。

 一月二日
 東京行きの飛行機の乗り換えで、ミラノで時間があるので、国際空港の移動するバスの運転手にお願いして時間いっぱいミラノの町をまわってもらった。
 ドォオモ広場でハトのエサ売りおじさんに、すごい金額を請求されてこわかった。
 私は二十一年前にローマでお財布をすられ、現金全部亡くしたけれど、今日は全員無事。ハトのエサ売りおじさんは愛嬌かもしれないが、心やさしい観光客はみんなひっかかっていた。

 さて、南イタリアの旅は、はじめから日本語で書きました。日本語は疲れなく描けます。三時間くらいで書き上げましたが、英語なら四ページ。フランス語なら十行も書けない時間です。
 来年は暖かいニューカレドニアに行きましょう。ニュージーランドも行ってないところが多いので、クリスマス前はニュージーランド、クリスマス後のグループはニューカレドニアからニュージーランドというスケジュールにしたいと考えてます。


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