エッセイ目次

No128.129
1999年12月4日発行


メキシコ・キューバ訪問記
国際交流基金主催-専門家派遣事業


 メキシコでの一番の仕事は山手の小学校だった。
 地方から都会にでてくる人々は、山の斜面に小屋を立てて住む。今ではそちらの人口がふえて、ついに小学校もできている。
 その小学校へ行くには、長い長い急階段を昇らなければならない。やっと昇った小学校も、三つの高さに別れている教室だ。山の頂上(校舎の入り口)に立った時のさわやかさは、登山の時と同じだ。汗びっしょりの身体に、風がここちよい。
 はじめの授業は、小学校五・六年生に〈色づくり〉だ。現地にある道具をなるべく使いたいということなので、パレット代わりにペラペラのビニールの三つに分けられた皿。水入れはジュースのカン。筆と絵の具と画用紙は日本から送っていたのを使うことにした。

 男の子を泣かした。
 三原色からたくさんの色を作ろうと、授業を始めてしばらくたったら、身体の小さな男の子が泣いている。必死で泣くのをこらえながら、小さな肩をふるわせて、下を向いて泣いている。
 近寄って、皿のパレットを見たら、全部の色をまぜて、皿全体が灰色になっている。これではどうしようもない。
 「ハイ、新しい皿に今、三原色の絵の具を入れてあげる」といいながら、新しい皿を渡した時の彼の顔がパッと輝いた。涙いっぱいついたままニッコリした。
 翌日は同じ学校で三・四年生に教えることになっていた。長い階段の下で、小学生が荷物運びのために待っていてくれた。この山の小学生は実に働き者だ。汗だくになりながら、競いあって画材や本などを運んでくれる。
 フト、三・四年生には〈空の絵〉を教えようと思い立った。
 毎朝、汗だくになって長い階段を登り、学校の門に行きついて眺める空の高さ。眼下には、メキシコシティの街が小さく広がり遠くには山々が見える。
 もし、空の絵が描けたら、昨日とは違って空がステキに見えるだろう。
 風で画用紙が飛ばされないように、コンクリートのテラスにガムテープを三っ折りにして両面テープのようにして画用紙をはった。
 はじめ準備をしている時は、日本の学校でのつもりで、新聞紙を用意してもらった。新聞紙は貴重なのに、無理して集めてもらった。ところが画用紙のサイズは全く違い四っ切り画用紙はすっぽり納まらない。役立たなかったのだ。パレットは日本製を使った。
 この日、日本大使館の佐藤さんが生徒と一緒に描いてくれた。この小学校の卒業生でいつも学校に来て小学生の世話をしてくれている中学生(?)の男の子も〈空〉を描いた。
 何と昨日〈色づくり〉をした六年生が、三・四年生の助手に来てくれる。幸いにもその日はくもり空だったので、描きやすかった。
 昨日の〈色づくり〉はうまくいったが、絵に名前を書く時、筆では書くのが難しいらしいと気がついた。空の絵ができあがった時、えんぴつで名前を書いてもらうことにした。何人もの生徒が空のまん中に大きく自分の名前を書いた。メキシコの人の名は長いので、画用紙のはしからはしまで、つづく。世界中同じだな、自分の作品が気に入ると子どもは大きくまん中に名前を書きたがる。
 メキシコの小学校には図工の時間がない。彼らは生まれてはじめて絵の具を使うのだ。色づくりが全くわからないけど、空の絵を教えたかったのは、空しか見えないような校舎だからだ。
 この山の学校の先生マリアは、日本に留学したことがあり、大の日本びいき。私たちのために、おせんべいや日本のお茶を用意してくれていた。しめったおせんべいに茶色のお茶なのに、私達日本人を喜ばせようと一生懸命だ。
 この山の学校にたった一人登って来た文部省の女性役人がいた。しかも三回共。


 一つの学校で3回の授業を
 この学校で三回目の授業は、小学校一・二年生だった。
 講堂の床で授業をやってもらえないだろうかというので、OKした。講堂とは、屋根があるだけで、床はコンクリート、そこにダンボールを置き〈毛糸の帽子〉を置いた。そのまわりの床に八人ずつ座って描く。
 〈毛糸の帽子〉は五色は、三原色と白で色を作らねばならない。
 その色ができない。なにしろ生まれてはじめての絵の具。何と何をまぜたら何色になるのか見当がつかない。
 本当は五・六年生がやったように〈色づくり〉をすべきだった。けれども、この小さな小学校の全校生徒を三日に分けて教えることになった時、それぞれの学年に別のテーマを教えておけば、お互いに教え合えるのではないか、だから〈色づくり〉〈空〉とやったので、次は〈毛糸の帽子〉だ。
 それに〈色づくり〉では余分なところの紙を切るという授業だし、〈空〉は画用紙一枚に納めるテーマだった。だったら〈画用紙が足りなくなったら足す〉というテーマも必要だ。はじめに八っ切り大の画用紙に描かせて画用紙が足りなくなったら足そう。そうやってはじめた〈毛糸の帽子〉の授業だったが、下のほうあと二段の編み目くらい画用紙が足りないくなったので、下に画用紙を足したら何と横まで広げて描きはじめる。一人二人ではないので、パニックになった。そして私は結論づけた。画用紙は足さないほうがよい。彼らは、はみだした絵でも平気なようだ。
 そのとき国際交流基金の尾内さんが言った。
 「キミ子先生、ただ今五人、十五分遅れで来ました。すみませんが教えてやってください。」「ハイわかりました。」と私は答えながら、目の前の子ども達の対応に追われて行けなかった。
 さて、全員の作品を壁にはった。まだ名前を書けないと聞いていたので、通訳さんが「この作品はだれの?」と聞いて前に出てきてもらう。そして名前を聞き、絵に名前を書く。その時に「今日の授業は・たいへん楽しかった? ・楽しかった ・ふつう? ・あんまりたのしくなかった? ・たのしくなかった?」と五段階評価を聞くことにした。一人目「たのしかった」二人目「たのしかった」三人目・「たのしかった」。ついに、七人目になった時マリア先生が言った。「ここの子はね〈たいへんたのしい〉時にも「たのしかった」と言うのよ。そうかもしれないけど、ちがうかもしれない。私はもっと粘ってみることにした。
 ところが、十人目くらいに、とつぜん
 「たいへん楽しかった」と最高の評価をする子が現れた。何と、私が教えたのではなく、五人の遅刻組。国際交流基金の尾内さんが教えたのだ。なるほど、しっかり描けている。
 帰りの車の中で「どうやって教えたの?」と聞いたら「キミ子先生は忙しくて来て下さらないので、必死でしたよ。逃げ出す子には、ピシッと叱り、くたびれていそうな子には『この授業が終わったら、いいものあげようかな』とだまし・ あー大変だった。でも、楽しかった」と嬉しそうだ。
 画用紙四枚も足して巨大な〈毛糸の帽子〉を描いた子は、うれしくて、つい隣の友達をけっとばしてしまう。ついに、先生に見つかって、廊下の向こうの階段に座らされた。頭に手をおき、体をちぢめて、うらめしそうな顔で授業の成りゆきを見守っていた。
 三日間通った小学校に情が移り、全校生徒とのお別れの時は、マリア先生の涙を先頭に、全員が泣き出してしまった。
 「さようなら、又ね」「きっと写真送るからね」
 どんな子にも、きちんと教えれば、大変楽しかったの評価をもらえるのだ。山の学校だろうが、年齢が低かろうが、生まれてはじめての絵の具を使ったことだろうが、差別してはいけないと、しみじみ思った。


 教育省の役人が見学する中で
 中学校では〈モヤシ〉を教えた。
 果物の生ジュースを飲みに行った市場で、モヤシが売っていたのだ。前日、日本料理店でゆずってもらうよう約束していたが、その時のモヤシよりも、太くて、長くていいモヤシだった。
 中学校・高等学校の美術の先生相手に〈色づくり〉の授業をした。
 「今のメキシコの美術教育は大事にされていなくて、数学や国語の授業にかえられています。日本ではどうですか? メキシコは今、三時間しかないのです」と、教育省のおエライさん達を意識して言う。
 私はおどろいて「日本ではずーっと二時間だったのに、最近、中学校では一時間のところもあるようです。」と答えると
 「エーッ?」と、おどろいたので、
 「メキシコでは、以前は何時間授業があったの?」と聞いたら六時間あったのだという。それには、こちらの方が「エーッ?」。
 別の中学校では、パレット、筆、水入れも貸して、絵の具だけは学校が用意したものを使った。ところが、この絵の具がアクリル絵の具だったのだ。
 「授業は中止。すぐにパレットを洗って! 早く洗わないと絵の具が落ちない!」と言ったら、教室のたった一つの水道に列をつくる。他のトイレが一つあるだけだと言う。
 結局、洗えたのは少しだけ、残りは私たちが薬局からマニキュア落としを買ってきて、それで洗い落とした。
 この学校は、教室に生徒が演奏するエレキバンドを入れてくれた。バックミュージックを流そうという案らしい。うるさくてかなわなかった。
 平地の学校では、教育省の方々がゾロゾロと見学に来られ、長々とした挨拶が続き、授業が終わると生徒代表の挨拶とプレゼント。大きな果物カゴに入った、大きな果物や花束にはまいった。
 メキシコ最後の授業は、車で二時間ほどの郊外へ行った。
 博物館で教えたのだが、その博物館はゲームが出来る博物館で、すごい騒音が博物館中にひびいていた。ともかくうるさい。
 午前は、新聞やテレビで呼びかけた定員限定三十名の幼児から大学生までが〈色づくり〉。
 この博物館でじっくり授業をするのは夢の夢。巨大なゲームセンターの中での授業のようなものだ。
 博物館長さんの子どもも参加していたらしい。
 「あの、あきっぽい子、又、いなくなっちゃった。どこかに遊びにいったんだわ」と思っていたら、パレットを洗いに行っていたのだった。
 騒音の中、全員が作品が出来上がったといいたいけど、一人の男の子、金髪でブルーの目の子が、たくさんの色ができたその上から、どうしたことかメチャクチャにぬりたくって、画用紙の上が灰色っぽくなっている。その絵を床に捨てていた。
 私は黙って、全部灰色のその絵をてきとうな形に切り、ピンクと緑色半々の色画用紙を台紙として作り、そこに色こそ灰色だが、様々な形に切った絵を並べて貼った。金髪少年は黙って従った。
 その絵を真ん中に、出来た作品を壁に貼った。少年も写真の中に入ったと思った。
 ところが写真をうつした後に壁を見たら、彼の絵だけがない。作品が並んだ壁の真ん中が空白になっている。二枚の色画用紙を使った台紙は重くて、セロハンテープの押さえがきかなかったようで、床に落ちていた。あー。
 メキシコでは九回絵を教え、キューバに移動した。


 キューバにて
 キューバは85%が公務員。小・中学校では美術や図工の授業はなくて、絵の好きな人がクラブ活動のような形で、午後の時間に「文化の家」というところに集まり絵を描く。絵だけでなく、歌やダンス、芝居などもある。小・中学校ばかりでなく、地域の人なら誰でも参加することができる。ダンスの参加者が一番多いそうだ。そういった「文化の家」があちこちにあり、そこでキミ子方式を教えた。
 キューバの初日だけは「アジアの家」という博物館に見学に来た小学校一・二年生に〈色づくり〉を教えた。
 メキシコとキューバの子どもたちの違いは、メキシコでは、文字が上手な子と下手な子の差があった。ところがキューバの子どもたちの書く文字は、筆記体で達筆、文章も長々と書く。キューバが教育にかける熱意が伝わってきた。
 ちなみに、キューバでは幼稚園から大学院まで無料で通える。小学校一・二年生は未だ文字が十分に書けないということで、感想文は、先生が黒板に書いた文章をそっくりうつして書いた。こうして文字を勉強していくのだろうが、全員同じ文の感想文には困った。

 キューバ三日目。
 身体障害児施設「パナマとの連体」(という施設の名前)にワークショップに行った。
 私達スタッフも、通訳、通訳夫人、荷物運びのアルバイトさん、日本人の助手など総動員して行った。きっと手がかかるだろう。日本大使館の熊倉さん、その運転手さんまでに指導をお願いした。
 「パレットが三十一枚なので、定員は三十一名です」と言って、ガランとした部屋に集まってもらうことにした。私達を歓迎するために用意された、植木や誰かの彫刻やらの飾りものは、全部教室のはじっこにどかして、教室の中を最大限に広くした。そこに車椅子の小学生から、おヒゲのはえた高校生くらいまでの三十一名がゾロゾロやって来た。
 「右手の使えない人は?」「左手は?」と、手をあげてもらったら、丁度半分くらい。  三原色と白での〈色づくり〉はうまくいった。ところが、できた絵を中心にまわりの余白を手でちぎって、というところで、ハタッと気がついた。両手を使えない彼らには〈ちぎる〉という動作はむずかしい。
 「大変だ。ハサミを使ってもらおう。しかし、日本からハサミは三つしか持っていっていない。先生達、全員集まって!」と声を上げた。教師らしき人は十一人いた。
 「ハサミが必要なんだけど・」と学校中のハサミに、私の三つを入れて、十五個集まった。そこで「十五個しかないので、先生達が手伝って切ってあげて下さい。絵を台紙に貼るのも、こうして手伝って!」と説明していたら、一人の美人でつけまつげの教師が「手が汚れるからイヤだわ!」と言った。彼女の指先は美しくマニキュアされていた。


 議論しましょう。
 その日の午後、芸術高校に行った。小・中学校はみんな一緒だけど、高校からは、自分の得意分野によって学校が分かれるようになっているらしい。
 日本の美大と同じ雰囲気、豪華な建物だが汚い部屋、破れた窓、らくがき。「美大は世界共通ね。なつかしいわ」と言ったら笑っていた。
 そこでやった〈色づくり〉の作品が、午前中の身体障害者施設の作品と、ほとんど変わらないできばえだった。
 それを見た通訳さんがおどろいて叫んだ。
 「面白いな、面白いなぁ、キミ子方式って面白いなぁ」
 その時から、通訳さんは、私達のスタッフと同じ動きをしてくれるようになった。キミ子方式の説明にも一段と熱が入った。
 その通訳夫人は日本の多摩市の小学校教員であった。小学校教師の時、私の本『三原色の絵の具箱』を買って下さって、小学校では実施したことがあったそうだ。そんな関係で今回、御主人が通訳をしてくれることになったらしい。
 芸術高校では、生徒達がよろこんで話を聞いてくれたけれど、先生達の雰囲気が少し違う。
 「明日は、生徒相手の実技ではなく、私達と議論しましょう」というのだ。
 「議論はむなしいものになると思います。でもやりたいならやりましょう。でも、条件があります。その時、学生全員が傍らで聞いていること。公開討論会にしましょう」と提案した。そして「三時間全部を議論の時間にしないで、一時間は絵を描きましょう」と。
 日本の美術大学ではじめてキミ子方式をした時と同じ反応なので、これも世界共通だなぁと思った。
 その夜、大使館員の家に呼ばれ、夕食会だった。その席に、カストロ首相取材のためにワシントンからかけつけた北海道新聞の記者がいた。
 翌日の芸術高校での議論の練習もかねて、北海道新聞記者に向かって「キミ子方式とは何か」を食卓で語り続けた。話を聞いて彼は「言われてみれば〈なるほど〉と思うけど、今まで誰も気づかなかったんだよねー」と関心してくれた。〈明日の討論会はこれで大丈夫〉。
 翌朝、ちょっと緊張してかけつけた芸術高校では、教師たちがなかなか出迎えてくれない。やっとあらわれた、昨日「議論をしましょう」と言った女性教師は
 「やっぱり生徒相手に実技の授業をしていただきます。私は本日いそがしいので、外出しますが・」という。せっかく昨日、記者さん相手に練習したのに、ちょっと残念。
 キューバでも九講座、芸術高校には二回行けた。
 作品のタイトルで、今までにないタイトルは、身体障害者施設での〈色づくり〉作品のタイトル
 「不滅のキミ子」
 このタイトルを見た時、不滅のカストロというセリフを連想し、思わずニヤリとしてしまった。

 いつでも、どこでも、誰でも描けるキミ子方式。今回は五十名くらい集まった日本語学習者対象のギューギュー詰めの時もあったが。机の数が足りなくて三十名が限度だった。教室もせまい。
 全部で十八講座をして、五四〇名以上の人が楽しんでくれたことになる。
 五四〇名以上の人々の喜びをいただいて、私はとても元気。来年のガティマラ、チャド、韓国行きを夢見て、ワクワクしている。


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