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文:松本 キミ子
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世界中の三原色の国旗の国へ、三原色と白だけで絵を描く「キミ子方式」を伝えに行こうと決めている。一九九六年にエクアドルからスタートして、二〇〇二年は四カ国目の国、ルーマニアである。二〇〇〇年十二月にチャド共和国から帰ったらすぐ「ルーマニアで絵を教えるには、どうしたらよいか」と悩み始めた。
ある日、仮説社で「ブカレスト大学の日本語科の助教授、ルクサンドラさんが筑波大に留学している」と住所や電話番号を教えてくれた。
これで安心。日本語が通じる人が行く先の国にいればメールでやりとりができる。もう実現できたようなものだと楽観していた。
ルーマニア行きのメンバーも決まり、いつものように国際交流基金の助成事業に申請したら、なんとボツになった。さらに私の勤める短大の学術国際交流の研究費もダメで、いよいよ自分達だけのお金で実行しなければならなかった。その矢先の六月はじめ、私の人生にとって青天霹靂な悲しい出来事がおき、前途真っ暗になる。
「今年のルーマニア行きを中止する?」と、キミ子方式海外実践研究チーム事務局長の川合京子が気づかってくれる。でも私は「こんな時だから、ルーマニアに行けたらいいなぁ、行けたら元気になれそうな気がする」と決行することにした。
しかし、六月以降、私は痴呆状態で過ごした。ルーマニア行きのメンバーがカンパ集めに動いてくれて、続々とカンパが集まった。その度に「行きたいなぁ」と、少しだけ元気がでるような気がした。
ルーマニア語のチラシやTシャツ作りをはじめ、現地との細かい日程の確認などは川合京子がすすめてくれた。その甲斐あって、無事八月二十一日成田空港にルーマニア行きの六名のメンバーが、初めて全員集合した。川合京子、貝田 明、永田ひろ子、小杉ひろみ、吉岡ゆかり、そして私の六人である。
この春、私たちが主催した文化講演会でお世話になった、大正大学大学院の講師、大田由己子さんも「お邪魔しないよう、ちょっと横から見ているわ。ミラノで合流しましょう」と顔を出した。

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成田を発って、ルーマニアのブカレスト空港には夜中の十一時に着いた。永田さんが「家を出てから丁度二十四時間経っているわ」とポツリとつぶやいた。
ブカレスト市の北のはずれ、ヘラストラウ公園内にある農村博物館が絵画教室の会場だ。歩いて三十分のところのホテルに五泊することして、現地に着いた翌日、会場を下見に行った。
農村博物館とは、ルーマニア各地の農村から、主に十八世紀〜十九世紀の農家や教会や水車など約三〇〇戸を移築している、日本の明治村のようなところ。そこで三日間、午前と午後と六講座が開かれた。
「午前組三十名、午後十七名の予約リストがあります。午前に三十名以上の人が集まったら午後に回ってもらいましょう」と、博物館学芸員のリーダー、マリーナさんの提案だ。
同じ人が連続三日間、絵を描くというのも初めての経験だ。追っかけ組と言って、毎回の講座に参加する人が、今まで三〜四人はいたが、参加者全員が三日間講座を受けることになっていた。どこで連絡がずれたのだろう。私たちの願いは、広くたくさんの人にキミ子方式を体験してもらいたいので、連続の講座はやってきていなかった。
椅子になりそうなもの、机になりそうなもの、絵を貼るパネルになりそうなものを、ホコリだらけの物置きからひっぱり出す。机はカンナのかかっていないガサガサの板。明朝、講座開始一時間前に行って、会場づくりをすることなった。
この絵画教室をコーディネートしてくれたオリビヤさんの二人の子ども、サンドラとアンドレイが、日本の和菓子とお煎餅を報酬に通訳をしてくれることになった。彼らは日本人学校に通っている小学生だ。
私たち全員は「キミ子方式で絵を描こう」の文と〈色づくり〉〈空〉〈毛糸の帽子〉〈草花〉の描き方をプリントしたTシャツを着ている。ルーマニア語がわからなくても、Tシャツを指させばいい。キミ子方式の考え方を書いたチラシも配る。
八月二十三日、十時。開始時間間近なのに十名くらいの人。「ルーマニア時間ってあるんですよ。二十分は遅れる」とオリビアさんは落ち着かない。
「パレットに絵の具を出すのは、人の集まり具合で数を決めましょう」と控えていた。
結局、三十八名が集まり、三〇人分のパレットしかないので共同利用してもらった。みんなで〈色づくり〉だ。それぞれ、ガサガサの机について、青空の下で、三原色と白の四つの色から、無限に広がる色の世界を楽しんでくれた。

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○三十六歳の中学校の先生の感想
「この方法は自由を感じます。自分に自信を持ってパワーを感じます。私は国語の先生ですが授業でも、この方法をについて話します」
○十三歳の学生の感想
「キミ子方式は面白くて、簡単です。才能のない人たちにも描けますね。本当のアーティストになれます。」
この日、四社のテレビ局、三社のラジオ局の取材。新聞を見て来たと言う人から、記事を掲載した新聞をいただいた。
午後は四十名の参加者で、日本から持っていった三〇人分の画用紙も筆も間に合わない。明日からは一つのクラスを二つに分けて〈毛糸の帽子〉〈草花ではがき絵〉の授業をして、三日目は、その逆のスケジュールで授業をすることにした。
オリビアさんには画用紙を買いに行ってもらうことにした。〈空〉の授業をやりたいが、地面がデコボコなので画板のようなものがないとできない。
二日目の午後、参加している人に中に日本人学校の教師がいることがわかった。さっそく画板を借りられないか?と相談すると、二つ返事で画板を二十枚持って来てくれた。
三日目、幼児や小学生たちは〈空〉を、大人たちは〈毛糸の帽子〉〈草花〉と、三つのグループに分けた。
いよいよ画用紙が足りなくなって、オリビヤさんの買ってくれた紙を使おうとしたが、それは〈らくがき帳〉で、コピー用紙よりほんの少し厚いくらいの画用紙だった。
「画用紙を買ってきますよ」と貝田さんと吉岡さんがタクシーに飛び乗った。十時四十分頃「日曜日なので、どこも閉まっていました」と肩を落として二人が帰ってきた。
午前中の授業はなんとか、残っている画用紙で間に合わせた。午後の授業は、マリーナさんからいただいたコピー用紙五〇〇枚があるだけだ。机がガタガタの板なので、コピー用紙の上にボールペンで〈髪の毛を描く〉授業はできない。さぁ困った。
日本人学校から借りた画板が十枚残っている。オリビヤさんが買ってきてくれた、らくがき帳十冊も画板のかわりになる。誰かにもらった画集も台には十分役立つ。というわけで〈髪の毛を描こう〉の授業ができた。ルクサンドラさんもかけつけてくれて、彼女の通訳で〈髪の毛を描く意味〉を話すことができた。
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ブカレスト市の次の町、ブラショフ市では下半身不髄の五歳の少女、私たちの貸切りバスの運転手やテレビ局のアナウンサーに、絵を描いてもらった。ボチーザ村の公民館やバルサナ修道院の孤児院でも、子どもたちに描いてもらった。ボチーザ村の子どもたちは「こんな楽しいこと、学校でもやってほしい」と感想文に書いてくれた。
九月に入ってプカレスト大学の入学試験が終わるのを待って、九月六、七、八日と三日間プカレスト大学日本語コースの教室で三日間授業をした。
どこでもキミ子方式は大歓迎された。テレビ局八社、ラジオ局三社、雑誌一社と取材攻めだった。全部で十二講座が開かれたが、何人の心の中に思い出として残るだろう。
いつの間にか、私も大きな声が出せるようになっていた。
猛暑の八月に日本を発ち九月半ばに日本に戻ると、朝夕はめっきり寒くなっていた。
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